ふねとお月さま
わたしたちは、海のなかにすんでいます。
「ママ、どうしてふねは、いつもおもてのほうだけが見えて、うらのほうは見えないの?」
そう子どもがきくので、わたしはうえを見あげました。
1そうのふねが、日の光をさえぎりながら、わたしたちのうえのほうを、とおりすぎていくところでした。
「ふふ。あれは、ふねの『おもて』じゃなくて、ふねの『した』のほうというのよ。」
「へえ、そうなんだ。」
「そう。それから、見えないほうは、ふねの『うら』じゃなくて、ふねの『うえ』のほうというのよ。ふねの『うえ』には、人間がのっているのよ。」
「ふうん。じゃあ、どうしてふねは、いつも『した』のほうしか見えないの?人間がのってる『うえ』のほうは、一度も見えたことがないよ。」
「それは、ふねの『うえ』のほうよりも、『した』のほうが重たいからよ。重たい『した』のほうが、いつも海のなかにしずんでいて、こっちを向いているのよ。」
「へえ。ふねの『した』のほうよりも、『うえ』のほうが重たかったら、どうなるの?」
「『うえ』のほうが重たかったら、ふねがひっくりかえって、人間が海におちてしまうわ。」
「それはたいへんだ!そっか、ふねは『した』のほうが重たいから、『した』のほうが海のなかにしずんで、いつもこっちを向いてるんだね。だから、こっちからは、いつも『した』のほうしか見えないんだね。」
ふねはゆっくりと、わたしたちのうえをとおりすぎていきました。
それからしばらくたったある日の、まんげつの夜でした。
海の波はおだやかで、まんまるのお月さまが、海のなかからも、くっきりと見えました。
「ママ、どうしてお月さまは、いつもおもてのほうだけが見えて、うらのほうは見えないの?」
「それはママも、ふしぎに思ったことがあるわ。」
「うん、どうしていつも、同じほうのもようしか見えないのかな。うらのほうのもようは、一度も見えたことがないよ。」
わたしは、自分が子どものころに、おじいちゃんに同じことをきいたのを、思い出しました。
「ママのおじいちゃんがおしえてくれたんだけどね、お月さまは、こっちを向いているほうが、うらのほうよりも、少しだけ重たいんだって。」
「へえ。」
「重たいほうがどうしてもこっちを向くから、いつも重たいほうだけが見えて、うらのほうは見えないんだって。」
「へーえ。じゃあ、ふねと同じだね。海にうかんでるふねは、重たいほうが、いつもこっちを向いてる。空にうかんでるお月さまも、重たいほうが、いつもこっちを向いてる。」
「そうね。お月さまは、まるで空にうかんでいるふねのようね。」
子どもは、かんしんした顔でまんげつを見あげているうち、こういいました。
「あ、お月さまが空のふねだとすると、いつも見えてるのは、お月さまの『おもて』のほうというより、お月さまの『した』のほうといったほうがいいよね。」
「ふふ。それもそうね。」
「そして、いつも見えないのは、お月さまの『うら』のほうというより、お月さまの『うえ』のほうといったほうがいいよね。」
わたしは、自分が子どもだったころのぎもんを思い出して、わくわくしてきました。そして、こういいました。
「お月さまの『うえ』のほうには、だれがのっているのかしらね。」
「だれがのってるのか、こっちからは見えないね。ふねと同じだね。」
「みなとは、どこにあるのかしら。」
「みなとでたくさんのりすぎてしまうと、お月さまの『うえ』のほうが重たくなって、お月さまがひっくりかえってしまいそうだね。」
「そのときは、お月さまのちがうもようが見えるかしら。」
お月さまはゆっくりと、わたしたちのうえをとおりすぎていきました。